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奈良雑記帖 戒壇院への道

奈良はとても緑の多い街です。それは、市街地のすぐ側に奈良公園が広がっているからでしょう。
「奈良公園」といっても、ここからここまで、と囲いがあるわけではありません。東は青垣の山並にとけ混むように、西はいつのまにか市街地に繋がっていて、むしろ公園の中に街や社寺が点在している、といった感じです。
松林に囲まれた広い芝生の上では、グループや家族連れが思い思いにレクリエーションを楽しみ、鹿の群れがゆっくりと草を食んでいる…そんなのどかな光景が、奈良公園の日常風景なのです。
さて、そんな奈良公園の中には、いくつものすてきな散歩道が存在しているのですが、中でも私が好きなのは、東大寺二月堂から戒壇院、そして正倉院へと向かう道です。
今はずいぶんと整備されて、かつてのような古びて剥落したような風情はいくぶん薄れてしまいましたが、それでも朽ちかけた土塀のぬくもりや、密かな松籟の音色に、遙かな時を経てきたこの町の歴史が感じられて、とても心が落ち着きます。
戒壇院には私の大好きな広目天さまもいらっしゃるし。
ぜひ一度歩いてみてくださいね。

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古都幻想  3. 告白−4

◆4

なかなか寝付かれず、明け方になってようやく浅い眠りに落ちた僕は、久しぶりに父の夢を見た。
父は何も語らず、ただ黙って僕を見つめている。しかめた眉のあたりに、苦悩の色がにじんでいるようだった。
(貴生……。すまない)
――まただ。
僕は大きく息をついた。
――何をあやまるの? 父さんのせいで、母さんが自殺しちゃったこと? 僕にはそのことを隠していて、父親らしいことを何もしてくれなかったから? それとも――奈良の恋人をほったらかしにしておいたために、僕に迷惑をかけたとでも思っているの……?
――それなら、その裕って子と綾さんにあやまるべきじゃないか。僕にあやまってすむことじゃないよ。
心の底では、父の気持ちに寄り添いたいと願いながら、面と向かうとどうしても素直になれない。夢の中でさえ憎まれ口をきいてしまう自分が哀しかった。
そんな僕に、もう父の幻は何も語りかけようとはせず、黙って背中を向けたまま、ぼんやりとした影になってしまった。
また肩透かしを食わされたような気がする。それとも拒絶しているのは僕の方か。僕が父を正面から見ようとしていないのだろうか。
やがて父の影は、形をなくしたかと思うとすうっと薄くなり、透明になり、光に溶けるように消えてしまった。
「父さん――!」
自分の声で目覚めた僕は、今し方、父が溶け込んでいったのと同じ色の光の中にいた。障子越しに差し込んでいるのは、やわらかな朝の光。
目尻を伝うしずくが涙であることに気づいて、僕はかすかに狼狽した。
(夢で泣くなんて……)
頭が重い。腕時計に目をやると、七時を少し過ぎたところだ。窓の外からは、小鳥のさえずりが聞こえる。奈良は、今日もいい天気らしい。

今日は、朝から西の京を廻る予定だった。薬師寺東院堂の聖観音に、ようやく会える。
ところが、出掛けになって急に萌が一緒に行くと言い出した。
「山村さんを案内するようにって、お母ちゃんから言いつかってるの」
「え……?」
「うちがいたら、迷惑?」
肯定こそしなかったが、正直わずらわしさが先に立つ。聖観音には、一人静かに対面したかった。今朝のこともあって、父がのめり込んだ像を目のあたりにしたとき、もしかしたら泣いてしまうかもしれないという予感があったから。
だが、そんな僕の危惧などまったく頓着することなく、結局彼女は強引についてきた。
(まったく有希といい、萌といい……。俺の押しが弱すぎるのかな?)
「早よ、行こ! 遅うなったら観光客であふれてしまうんよ」
萌に引っ張られるようにして、まぶしい朝の陽光の中を僕たちは近鉄奈良駅へと向かった。

(続く)

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古都幻想  3. 告白−3

◆3

それから僕たちは、世間話のように、ぽつりぽつりとお互いの生活や身の上について話した。
僕が五歳のときに母が死んだこと、ずっと父になじめず他人を見るような思いで接してきたこと、そのことが、今になってどうしようもなく悔やまれること――。
「とても大きな忘れ物をしてきたような気がするんです。もっと父のことを分かってやる努力をするべきだったんじゃないかって」
相手が綾さんだと、妙に素直に自分の気持ちを吐露することができるのだった。
綾さんは僕の知らない父の思い出を話してくれた。ただそれさえも、弟の喜びや痛みを通して、時折垣間見ていたものに過ぎないのだと言う。その頃、父と正面から向かい合っていたのは、おそらく裕という少年だけだ。僕には横顔どころか、後ろ姿しか見せてくれない父だったけれど。

「山村先生は、絵に対してはほんまに厳しい真面目なおひとでした。自分が納得いくまで何日もそこへ通い、何枚も描き直し、けして妥協しやはらへん。外から帰ってきても部屋に閉じこもったきり、――お食事です、て声かけてえらい叱られたこともありましたわ。長いことうちに滞在してくれはって、毎日取り憑かれたように描いてはりましたなあ」
父が水野旅館を定宿にし始めた頃、綾さんは旅館の板場をしていたご主人と結婚し、萌が生まれたのだそうだ。ところが、その後しばらくして、ご主人は突然浮気相手と家を出てしまったらしい。
「包丁人らしい真っすぐな人やったけど、女出入りも激しい人でした。私も至らんかったんでしょうね」
つらい過去のはずなのに、それを語る双眸はどこまでも穏やかだ。
「父も母も相次いで死んでしもうて、萌はまだ幼稚園やし……。裕が旅館を手伝うてくれて、何とか細々と続けてきたんですけど」
その弟が三年前の春に交通事故で急死したため、祖父の代からの旅館もとうとう廃業せざるを得なくなってしまった、と綾さんは寂しそうに微笑した。
「今は萌と二人きり……。駐車場の収入やら何やらで毎日の暮らしに困ることはないし、気楽にやらしてもろうてますけど、何か手応えがのうてね」
「弟さんは結婚されなかったんですか?」
「ええ、まあ……」
白くなめらかな頬にほんの少し狼狽の色がさしたのを見て、僕はしまったと思ったが、もう遅い。
「あの子は結局、山村先生のことを忘れられへんかったんやと思います」
綾さんは遠い目をした。
「奥様がお亡くなりになったとかで、先生が急に東京へ戻らはった後、それは荒れて荒れて。何があったのか、一言も言うてくれませんでしたけど、先生はそれっきりうちへお越しになることはあらしませんでした」
おそらくは、母の死という現実の事件が、幻想の世界に逃避していた二人を引き離したのだ。それは、はたして偶然だったのか。
母の死は自殺だったにちがいないと、そのとき僕は確信した。
裕は、父と別れた後、一時期精神的におかしくなったらしい。ようやく立ち直ってからも、女性には興味を示さなかったそうだ。
「繊細な子やったから、不用意に触ると壊れてしまいそうで、見てるのも怖いほどでしたわ。本人は強がって平気そうな顔してましたけど、時折ふうっと魂が抜けたようになってしまうことがあって……。三年前の事故も、ほんまに事故やったんかどうか――。単車でガードレールに突っ込んだんですから」
父、母、裕――。
それぞれが傷つき、血を流したのだろう。真剣に思いを重ねれば重ねるほど、出口のない迷宮の奥へ入り込んでいかざるを得なかった三人の愛のかたち。
「父を恨んでおられるんでしょうね」
「いいえ」
綾さんは真っすぐに僕を見つめ、きっぱりと言った。
「私も、もちろん裕も、先生のことを恨みに思うたことなんか一度も……。裕にとって山村先生は、最後まで一番大切なおひとやったんやと思います」

(続く)

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古都幻想  3. 告白−2

◆2

綾さんは茶碗をすすぐ手を止め、秘めやかな情熱をたたえたまなざしを僕を向けた。父の描いた聖観音そっくりの輪郭に、ぞくりとするほどの艶やかさを含ませて。
だがつぎの瞬間、綾さんの口から出た言葉に、僕は驚愕した。
「あの絵のモデルは、私とは違います。山村先生と私は、貴生さんが疑うてはるような関係やないんです。――あれは、三年前に死んだ私の弟ですねん」
「弟さん……ですか?」
つぎの言葉が見つからない僕に、綾さんは静かにうなずいた。
「先生がうちに滞在してはった頃、弟は高校を卒業して家の手伝いをしてました。大学受験に失敗して、予備校へ行くでもなくぶらぶらしてたんですわ。私が言うのも何やけど、弟の裕は、男のくせに女みたいに華奢できれいな子で……」
「それで、父はその弟さんと――」
「堪忍ね」
突然こんな話で、びっくりしたでしょう? と、綾さんは慈しみにあふれた目で僕を見た。それから、たぐるように、選ぶように言葉を継いだ。
「ただ、これだけは分かってあげて。先生も弟も真剣やったの。けっして遊びや気まぐれからやなかった。先生には奥さんも子どもさんもいてはるし、まして男同士。世間の常識からしたら許されることやないけど……」
(でも、愛してしまったんだ。破滅に通じると分かっていても、親父は、その道を選んでしまったんだ)
一瞬真っ白になった頭で、それでも僕は必死に事実を認め、納得しようとしていた。あまりに衝撃的な内容であるにもかかわらず、そのまま受け止めることができたのが、自分でも不思議だった。
奈良だから、か?
この町には、阿修羅の瞳をした少女や、聖観音の魂を持った少年がいる。現実と背中合わせにある幻想の世界。古代の幻が見せる誘惑の風が父をくすぐり、家庭人としての理性を吹き飛ばしたのかもしれない。
それにしても、水野裕という少年を父はどのように愛したのだろう。どんな気持ちで、どんな形で……?
男同士の恋愛なんて、僕にはとうてい理解できない。何かしらドロドロした世界のようで、想像しただけで気分が悪くなる。どう考えても、その行き着く先にハッピーエンドはないのだから。

(続く)

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古都幻想  3. 告白−1

◆1

水野家の夜は、ときおり遠くを走る自動車の音がかすかに聞こえる以外、しんと静まりかえっていた。
真夜中を過ぎても、目が冴えて眠れない。障子越しの薄明かりに、天井の桟だけが妙にはっきりと浮かんでいる。
(眠らなきゃ――)
焦れば焦るほど頭の奥がちりちりする。興奮で喉がひりつく。深い湖の底にいるような静寂の中で、僕は寝苦しさに転々とした。
それというのも、先刻綾さんから聞かされた話のせいだ。その話とは――。


心尽くしの夕食の後、和服に着替えた綾さんは、小さな茶室へと僕を誘った。炉にはすでに明々と炭が入れられ、茶釜にたぎる湯が澄みきった音をたてている。
凜とした点前で茶事を進めながら、綾さんは、父の描いたあの絵を息子である僕に返したい、そのためにわざわざ奈良までご足労いただいたのだと、まず手紙の依頼の内容を明らかにした。
「ほんまやったら、私が東京へお伺いせなあかんのですけど……。急にお訪ねしても、貴生さんかてびっくりしやはるやろし。何よりも、貴生さんに見てほしかったんです。山村先生がお好きやった奈良の町やお寺さん、仏さま……。ほんまの奈良を知ってもろうてから、あの絵をお渡ししたいと思うて」
それから綾さんは見事な手さばきで薄茶をたて、僕の前に置いた。
「すみません。お茶をいただく作法を知らないんです」
「そんなん気にせんと、好きなようにあがってくれはったらええのよ。若い人の口には合わへんかもしれませんけど」
「それじゃ――、いただきます」
僕は軽く頭を下げ、大振りの茶碗を取り上げると、とろりと泡立った薄緑色の液体を一気に飲み干した。口に含むと意外に甘く、後味が爽やかだ。
「もう一服、いかが?」
「いえ、もう結構です。でも、思ったより飲みやすくて、おいしいんですね」
「そう言うてもらうとうれしいわ。そのお茶碗、赤膚焼ていう地の焼き物で、萌が焼いたんですよ。もっとも、まだまだ素人の遊びみたいなもんで、お客様にお出しできるような代物やないんやけどね」
パチパチと炭のはぜる乾いた音が響く。
「綾さん――」
ゆっくりと過ぎていく時間を心の奥で数えながら、僕はとうとうその静けさに耐えきれなくなって口を開いた。
「あの絵、あの聖観音は……」
――綾さんですか?
という問いは、しかし声にならなかった。

(続く)

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奈良雑記帖 奈良町界隈

「古都幻想」第2章が終わりましたので、またまたこの辺で一休み。
今、奈良で一番ホットな観光スポットといえば「奈良町」でしょうか。
元興寺の門前町として発展したこの辺りは、古い家並みが今も残る奈良の下町です。
近頃では、狭い路地の通りに、町家を改装したおしゃれなカフェや雑貨屋さん、食事処などがあちこちにできて、観光客にも人気のスポットになりました。
つい先日も、実家の両親と奈良町を歩いてきたのですが、行くたびにどんどん新しいお店がオープンしていてびっくり。
また、寒い時期なのに、結構観光客が歩いていて、にぎわっていました。

「古都幻想」に出てくる水野家も、この奈良町の辺りで旅館をしていた、という設定になっています。特にモデルになっている場所があるわけではありませんが、ちょっと懐かしくてそのくせモダンな奈良町の空気が、水野綾さんにはぴったりかなあ……なんて、手前味噌ですね(笑)。

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古都幻想  2. 奈良へ−6

◆6

「この絵のモデルは、綾さんですか?」
思いきって尋ねた声がかすれているのが、自分でも分かる。
「うそー。これ仏さまやで、薬師寺の」
少女が声をたてて笑った。
「萌は黙っとり!」
はっとするほど厳しい綾さんの声に、空気までもが張りつめた。
「――貴生さん。そのお話は、また後でゆっくりさせてもらいますわ。まずはお湯でもつこうて、一服しやはったらどうですか。すぐ夕ごはんにしますよって」
有無を言わせぬ迫力に、僕は黙ってうなずいていた。
「萌。早よ、お部屋に案内して。それから、お風呂の支度も頼むわな」
「はいはい」

磨き込まれた廊下は、坪庭の横を通り奥へと続く。案内された部屋は、これといった調度もなく質素ではあったが、こざっぱりしていて障子の白さが心地よかった。
萌は、僕の荷物を部屋の隅に置き、座布団を勧めてから、慣れた手つきでお茶を入れてくれた。
「どうぞ。お菓子は『青丹よし』です」
「ありがとう。ところで――」
にこりともしないで座っている萌の顔を見ていると、少しからかいたくなってくる。
「昼間の彼は、萌ちゃんの彼氏?」
萌は、初めて少女らしい笑顔を見せた。
「ああ、淳ちゃん? 別に付き合ってるとかいうんやなくて、同じ先生のとこで焼き物習ってんの。あたしが先輩で、彼が後輩」
言ってから、思い出したようにくすりと笑う。
「淳ちゃんって頼りないんよ。リキシャのバイトも全然お客さんに声かけられへんから、お金にならへんし……。なんか気の毒で」
「それでつい、客引きしてあげちゃうんだ」
「うん――」
くったくのない笑顔に、僕は安堵した。ついさっきまで、萌が本当は阿修羅の化身なのではないかなどと、本気で考えていたのだ。

奈良へ来てから、僕はずっと不思議な気配に包まれていた。
日常の中に突然口を開ける四次元空間。そこかしこに見え隠れするのは、遥かな時を経てきた沈黙の闇。じっと息をひそめている太古の神々の幻影だ。
僕たちの常識では考えられないような不可思議なことも、この町では起こり得るような気がする。
なにしろ、ここは奈良なのだから。

(続く)

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古都幻想  2. 奈良へ−5

◆5

「始めまして、山村貴生です。水野綾さんですか?」
緊張した声で挨拶して頭を下げると、そのひとは、芙蓉の花が開くように鮮やかな笑みを浮かべた。
「山村さん、遠いところ、ようお越しくださいました。お疲れでしたやろ。私がお手紙を差し上げた水野です」
僕としてはもっと古風な女性を想像していたのだが、実際の綾さんは、生成りのコットンセーターにツイルのパンツという若々しいいで立ちで、世田谷あたりの住宅街に似合いそうな雰囲気だった。
「さあ、どうぞ。お上がりください」
綾さんがかがんでスリッパを揃えてくれたとき、後ろで無造作に束ねた髪が揺れ、ふわりといい匂いがした。

スニーカーを脱ぎ、ロビーに上がったところで、壁に掛けられた一枚の絵に気付いて、僕は息をのんだ。
(あの仏像だ!)
父が取り憑かれたように描いていたモチーフ、薬師寺東院堂の聖観音立像。
八号ほどの大きさはあるだろう。左斜めから見た聖観音の顔のアップだ。しかもデッサンや下書きではなく、きちんと仕上げられ、額装された油絵なのだ。
おそらく、僕がアトリエで見つけたたくさんの下絵をもとに、作品として完成されたうちの一つがこれなのだろう。それにしても、僕が奈良に興味を持ち、この町を訪れる原因にもなった父の幻に、こんなに早く、こんな形で出会えるとは。
「これ、父の絵ですね」
「ええ。もうずいぶん昔に、山村先生がうちに滞在しながら描き上げはったもんです。一枚しか残ってませんけど――」
「水野さんが僕に話したかったことって、これのことなんじゃ……?」
「はい」
綾さんは静かにうなずき、僕の横に立って父の絵を眺めた。物静かなまなざしの奥に、強い意志の光を込めて――。
美しいひとだ。綾さんの横顔を見つめながら、心底そう思った。
死んだ母も華やかで激しい女性だったそうだが(僕は写真でしか覚えていない)、綾さんの美しさは、内面からにじみ出る芯の強さを映したものだという気がする。父がそんな綾さんに引かれ、彼女に対する思いを聖観音への執着に重ねていたとしても、何の不思議もない。油彩の聖観音の気品に満ちた顔は、見れば見るほど綾さんに似ていた。
僕はもう、何も知らない子どもじゃない。外からは仲のよい夫婦にしか見えなかった両親が、実は覆いがたい不信とすれ違いの仲だったことにも気づいている。父の過去を責める権利など、今の僕にはないのだった。

(続く)

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古都幻想  2. 奈良へ−4

◆4

日が西に傾く頃になって、ようやく秋を思わせる涼風が立ち始めた。空が淡いオレンジ色に染まると、急に空気が冷え込んでくる。
歩き疲れた足で近鉄奈良駅に戻った僕は、コインロッカーの荷物から薄手のジャケットを取り出して羽織り、綾さんから送られてきた地図を頼りに水野家に向かうことにした。
駅から南へ。東向(ひがしむき)、餅飯殿(もちいどの)、下御門(しもみかど)と、古風な名前の商店街を抜けると、奈良町と呼ばれる一画に出る。元興寺の門前町として発達し、江戸時代の町家が今も残る奈良の下町だ。
板塀に連子格子といった落ち着いた家並みが続く界隈に、かつて旅館を営んでいたという水野家はある。薄闇に包まれ始めたあたりの風景に溶け込むように、ひっそりと僕の訪れを待っているかのような風情だ。
玄関脇の門灯に灯が入り、そこだけがほっこりと暖かい。古びてはいるが、きちんと掃除された玄関に立ち、僕は大きく息を吸い込んだ。意を決して引き戸を開ける。
「ごめんください」
自分でも驚くほどの声が出た。

中に入ると、広いたたきと上がり框。その奥は元旅館らしく板張りのロビーになっていて、古びた応接セットが置いてある。くすんだセピア色に塗り込められたような空間だ。
間口に比べて奥行きがずっと広いのは、このあたりの町家の特徴だろう。
「はーい」
しばらくして、かん高い声とともに廊下の奥から人の出てくる気配がした。
現れたのは、セピア色の世界にはなじまない若い女性だった。モノクロ写真が突然カラーに変わったようだ。だが、近づいて来た女性の顔が識別できた途端、僕は目を疑った。
ショートカット、白のTシャツにダブダブのGパン、そして刺すような視線で僕を見つめていた阿修羅の少女。
「君は……」
「あ、あんたは、昼間の?」
相手もひどく驚いたらしい。茫然とたたきに立ち尽くす僕と距離をとったまま、ロビーの真ん中で固まってしまっている。
「さっきはどうも――」
「いえ、うちの方こそ、すんませんでした」
お互い何となくぎごちない。居心地の悪さに胸苦しさを覚えたとき、奥から聞き覚えのある声がした。
「萌。どないしたん? 山村さんが来やはったんやないの?」
淡いピンク色のエプロンで手を拭きながら現れたのは、上品な感じの、まだ三十代だろうか、僕が思っていたよりずっと若くて美しい女性だった。

(続く)

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古都幻想  2. 奈良へ−3

◆3

阿修羅の余韻を引きずりながら、国立博物館から東大寺に向かう道(奈良公園のメインストリートともいうべき道だ)をぼんやりと歩いていた僕に、若い女の子が声をかけてきた。
「観光ですか?」
「え? ああ、まあ……」
ショートカットに、ジーンズ生地のキャップがかわいい。ぴったりした白のTシャツとオーバーサイズのGパンが、少年っぽい笑顔によく似合う。まだ高校生ぐらいだろうか。
「人力車で回ってみません? ええ記念になりますよ。ほかの観光客が行かへんような穴場も案内しますし」
少女は、僕がたいしたあてももっていない観光客と見て、勧誘の言葉に力を込めた。
「有名なとこ、効率よう回らしてもらいますよって。どうですか?」
「君が引くの?」
「とんでもない! こんな細腕やったら心配でしょ。だいじょうぶ、あたしは客引き、車引くのはあっち――」
少し離れた所に、観光用の人力車と学生アルバイトらしい長髪の青年が立っている。僕と同じくらいの年齢だろう。交渉成立と見たのか、軽く会釈して、車を引いて来た。
「ちょっと待って。まだ、乗ると決めたわけじゃないんだから」
「そんなあ……。お願いしますよお」
僕があわてて手を振ると、にこやかだった頬がくずれた。泣き出しそうになった少女の肩に、車を降ろして近づいてきた若者がそっと手を置いた。
「萌ちゃん、もうええよ」
「けど」
「もうええって――。すんません、無理強いして。どうぞ、気を悪くなさらんといてください」
まだ何か言い足りなさそうな少女を自分の後ろに押し戻すようにして、若者は鉢巻きを取り、頭を下げた。
「僕のほうこそ、はっきり断ればよかったのに、ごめんよ。今は一人で歩きたい気分なんだ」
ちょっぴり苦い思いで僕はその場を後にした。横断歩道を渡り、東大寺大仏殿へと向かう参道の途中、振り返った僕の目に、萌と呼ばれた少女の刺すような視線が飛び込んできた。怒りとも悲しみともつかない色をたたえて、じっとこちらを見つめている。
(阿修羅のまなざしだ)
さっき見た仏像の、怜悧な少年の面差しが重なる。
激しく、そして冷たい阿修羅の心。それはたぶん、絶えざる闘争の末、怒りの果てにたどり着いた深い悲しみなのだろう。

観光客で賑わう大仏殿には行く気が失せてしまい、僕は参道の東側に広がる芝生の上に腰を下ろした。
若草山、春日山、御蓋山と続く青垣の稜線がすぐそこだ。きらめく陽光の下、キャッチボールやバトミントンに興じる若者たち、鹿と遊ぶ家族連れ、仲良く肩を寄せ合うカップル……。観光パンフレットの一ページのようなのどかな景色をぼんやりと眺めながら、いいしれない淋しさが広がる。
置き忘れられた僕。阿修羅の孤独が少しだけ実感できる気がした。
やはり奈良は異郷だ。
かつてこの地に立ち、この町を愛しただろう父の姿は、まだ見えない。

(続く)

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