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それから僕たちは、世間話のように、ぽつりぽつりとお互いの生活や身の上について話した。
僕が五歳のときに母が死んだこと、ずっと父になじめず他人を見るような思いで接してきたこと、そのことが、今になってどうしようもなく悔やまれること――。
「とても大きな忘れ物をしてきたような気がするんです。もっと父のことを分かってやる努力をするべきだったんじゃないかって」
相手が綾さんだと、妙に素直に自分の気持ちを吐露することができるのだった。
綾さんは僕の知らない父の思い出を話してくれた。ただそれさえも、弟の喜びや痛みを通して、時折垣間見ていたものに過ぎないのだと言う。その頃、父と正面から向かい合っていたのは、おそらく裕という少年だけだ。僕には横顔どころか、後ろ姿しか見せてくれない父だったけれど。
「山村先生は、絵に対してはほんまに厳しい真面目なおひとでした。自分が納得いくまで何日もそこへ通い、何枚も描き直し、けして妥協しやはらへん。外から帰ってきても部屋に閉じこもったきり、――お食事です、て声かけてえらい叱られたこともありましたわ。長いことうちに滞在してくれはって、毎日取り憑かれたように描いてはりましたなあ」
父が水野旅館を定宿にし始めた頃、綾さんは旅館の板場をしていたご主人と結婚し、萌が生まれたのだそうだ。ところが、その後しばらくして、ご主人は突然浮気相手と家を出てしまったらしい。
「包丁人らしい真っすぐな人やったけど、女出入りも激しい人でした。私も至らんかったんでしょうね」
つらい過去のはずなのに、それを語る双眸はどこまでも穏やかだ。
「父も母も相次いで死んでしもうて、萌はまだ幼稚園やし……。裕が旅館を手伝うてくれて、何とか細々と続けてきたんですけど」
その弟が三年前の春に交通事故で急死したため、祖父の代からの旅館もとうとう廃業せざるを得なくなってしまった、と綾さんは寂しそうに微笑した。
「今は萌と二人きり……。駐車場の収入やら何やらで毎日の暮らしに困ることはないし、気楽にやらしてもろうてますけど、何か手応えがのうてね」
「弟さんは結婚されなかったんですか?」
「ええ、まあ……」
白くなめらかな頬にほんの少し狼狽の色がさしたのを見て、僕はしまったと思ったが、もう遅い。
「あの子は結局、山村先生のことを忘れられへんかったんやと思います」
綾さんは遠い目をした。
「奥様がお亡くなりになったとかで、先生が急に東京へ戻らはった後、それは荒れて荒れて。何があったのか、一言も言うてくれませんでしたけど、先生はそれっきりうちへお越しになることはあらしませんでした」
おそらくは、母の死という現実の事件が、幻想の世界に逃避していた二人を引き離したのだ。それは、はたして偶然だったのか。
母の死は自殺だったにちがいないと、そのとき僕は確信した。
裕は、父と別れた後、一時期精神的におかしくなったらしい。ようやく立ち直ってからも、女性には興味を示さなかったそうだ。
「繊細な子やったから、不用意に触ると壊れてしまいそうで、見てるのも怖いほどでしたわ。本人は強がって平気そうな顔してましたけど、時折ふうっと魂が抜けたようになってしまうことがあって……。三年前の事故も、ほんまに事故やったんかどうか――。単車でガードレールに突っ込んだんですから」
父、母、裕――。
それぞれが傷つき、血を流したのだろう。真剣に思いを重ねれば重ねるほど、出口のない迷宮の奥へ入り込んでいかざるを得なかった三人の愛のかたち。
「父を恨んでおられるんでしょうね」
「いいえ」
綾さんは真っすぐに僕を見つめ、きっぱりと言った。
「私も、もちろん裕も、先生のことを恨みに思うたことなんか一度も……。裕にとって山村先生は、最後まで一番大切なおひとやったんやと思います」
(続く)

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